2009年12月12日土曜日

研究の大切さ

12月8日の天声人語に、「命の大切さ」、「戦争の悲惨さ」、「平和の大切さ」などという言葉に関する文章があった。便利なだけに手垢にまみれた中身のないことばなりつつある、というものである。
次のような一節もある。
批評家の小林秀雄が能について述べた一節を思い出す。〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様(よう)なものはない〉。

昨今、事業仕分けで科学関連の予算が削減されて偉い先生やら学会やらが、必要性を説明せずに頭ごなしに「科学の大切さ」「教育の大切さ」を訴えていた様な気がする。

近年、研究費獲得のため「この研究の大切さ、必要性」を訴える文章を書かされることが増えてきた。しかし、大部分の人はホンネではそれらの”大切さ”は書類作成のために後から考えたものであることを否定しないだろう。

大切な研究」、「必要な研究」、そして本当は一番大切な「面白い研究」をしてその結果を見てもらうしか無いような気がする。

2009年12月2日水曜日

FD講習会

Faculty Development なるものが開催されました。
現在の日本の大学は大学発祥の地ヨーロッパに比べれば5倍ぐらい多いようです。大学生も多すぎます。誰でも入れるようになった日本の大学は、社会の期待に応じて変わらなければならず、そのための講習です

しかし、例えば、調理師を養成する専門学校は調理師になりたい人を入学させるのであって、入った学生が「IT技術を学びたい」と期待しているからと言ってそれに対応することは無いでしょう。
大学も必要としている能力に達し、学ぶ意欲のある学生のみをしっかり選んで入学させれば、大学が変わる必要は無いと思うのですが。現状で、そんなことをすれば、学生が減って教職員が余って職を失うから無理なんでしょう。本質的にはその方が重要なことのように思われます。

FD講習会で聞いたこと。
  • 大学教員は権力者(単位や学位を授ける権利)であることを認識せよ。→説明責任がある。
  • 社会が大学に期待している教育研究成果は、アウトプットではなくアウトカムである。
     → 学生に何をやったかではなく、学生が何を身につけたか。
  • 大学評価は、自己評価が基本である。(部外者は細かいことを評価できない)
     → 自己評価をフィードバックして改善する(PDCA)システムが機能しているかどうかを認証機関が認証するように変えるべき。
  • アカデミック・ポートフォリオが効果的(個人レベルでの自己点検・評価)
     → 学生は自分が学んできた過程、教員の評価を全てまとめて記録として持っておく。
     → 教員も教育・研究活動記録を常に記録して自己点検する。
  • 教育プログラムの構築
    →多様性に応じたプログラム(課程)の学部を超えた連携による構築。
    →”カリキュラム”とは、国が作ったモノで、”プログラム”は大学による自主製作

2009年11月18日水曜日

ブクログ

便利なサービスを紹介。
ブクログ Booklog http://booklog.jp/home

ずいぶん前から登録していたのですが、最近リニューアルされてとても使いやすくなりました。
読んだ本にコメント付けて管理したり、読んでみたいな~、と言う本を登録しておいたり。

2009年8月24日月曜日

授業準備のコツ ~ プロジェクター利用 1

今年、文系向け「物理学概論」という授業を行うにあたり、毎回全てPowerPointを利用して授業内容を準備して行うことを初めて試みた。その経験から学んだコツを列記しておこうと思う。

*スライドの枚数は18枚~24枚ぐらい(90分授業)。

内容にも依るが18枚なら早めに終われる。

*授業の最初に、配布資料用に縮小印刷したものを配る

1枚に6つのスライドを印刷すれば、両面印刷で2枚で済む。

*最初に、疑問を提示する

この答えがその日の授業を聞くと分かる様になれば興味が沸くかも。

2009年8月17日月曜日

学生にとって大学は何をするところか

この疑問にたいして、大学院を出てから自分で考えた答えは、
「学び方を学ぶ場だ」
でした。(正直、自分が学生のときは大したことを教えてもらった気はしない)
これはずいぶん昔から言われているようです。以下に、有名な梅棹忠夫の「知的生産の技術」から引用します。
全てを教えるのが教育ではない、とは思うが、それは少数の優秀な学生を育てれば良い時代にしか通用しなかったと言うことか。

「知的生産の技術」 梅棹忠夫・著 (岩波新書 1969年)より
======================
「大学は学問をおしえるところではない。学問のしかたをおしえるところだ」ということがいわれる。
しかし、じっさいはやはり、大学においても、学問の方法をおしえるよりも、学問の成果をおしえるほうに熱心である。
======================

2009年8月9日日曜日

講義の消滅

昔は大学では基本的に”講義”と呼ばれていたが、最近は高校までと同様に”授業”と呼ばれています。”講義の授業回数”なんて表現も見られます。
Wikipediaを見ると、
「講義(こうぎ、lecture)は、大学などの高等教育機関での教育の形態の1つ。(中略)授業が、教師と生徒の共同での学習活動で、質疑応答や討議、グループワーク、自習など、様々な形態が学習課題に対応して、適宜用いられるのに対して、講義は、教師が自分が作成してきた講義ノートを読み上げるという形で行われる。」
と言うことの様です。

教授の考え方を説き聞かせる”講義”があったのがこれまでの大学でしたが、確立された学問と言うか、技能を教え授ける場になったと言うことでしょう。「どれだけの能力が身についたか保証する教育」が大学に求められるようになっていることが、講義が消滅したことと対応しているかもしれません。